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細君の冬菜が、その時、早見を案内してはいつて来る。煙は早見と目礼を交す。早見が煙に代つて、病人の脈をとる。聴診器をとり出して胸部にあてる。手足の指に触つてみる。加来は眼をあける。
ところが、二人はもともと万年一等兵であった。その証拠には浪花節が上手でも、逆立ちが下手でも、とにかく兵隊としての要領の拙さでは逕庭がなかった。ことに命令されたことをテキパキ実行できないというへまさ加減では、この二人に並ぶ者はない。おまけに兵隊にあるまじいことには、兵隊につきものの厚かましさが欠けていた。
加来非常によろしい。幽明の界といふのはこれかと思はれるほどです。
突然、地の床から湧くような声がする。
A――自分や他人をより善くしたいということなら、俺だって望まないことはない。ただ俺は、何かを為すことによってそうしたいというのではなく、自分がよく生きることによって、もしくはよく死ぬることによって、自然にそうなるということを、晴々とした気持で感得しているのだ。お前のように、もう自分は助からないということを知りながら、まだ生きたいとくのは、自分自身や周囲の者達に、徒らに悲しみを与えるだけだ。
対照
併しそれと違つた賑やかさが此間を領している。或る別様の生活が此間を領している。それは声の無い生活である。声は無いが、強烈な、錬稠せられた、顫動している、別様の生活である。
さて、かういふ風に、次ぎから次ぎへと準備を進めて行きますと、今までのわれわれの生活はなんといふ隙だらけな、そして、無駄の多いものだつたかといふことがわかります。
吾々は之迄、科学と哲学とを一応対立せしめた上でその区別乃至区別の有無を見た。併しながら歴史の源泉に於ては、このような一応の対立を想像することすら許されない場合が寧ろ本来であったのである。――知識の追求――philosophia――は極めて最近に至るまで哲学と同時に科学を意味した*。そして又scientiaも科学であると同時に哲学であった。ギリシアに於ける所謂哲学を、今日吾々が科学から区別している処の哲学として理解しようと欲する時、多くの無理を見出すであろうと同じに、ギリシアの科学(例えば自然哲学)を、今日の哲学から区別された所謂科学として待遇することも同様に出来ないことである。例えばアリストテレスの所謂物理学は物理現象に行なわれる種々なる経験法則(それを今日の科学としての物理学は求める)や、又それが基くと考えられる先天的原理(例えばカントの自然哲学は之を求める**)を指摘することをその第一の目的とするのではなくして、まず第一に自然そのものを、自然概念を――但し自然に関する観念や表象(それは後世の意識の問題となる)ではない――分析し、次に之にぞくする諸々の根本概念を分析するのをその任務としたであろう。そうすればアリストテレスの物理学は哲学に対する科学(自然科学)であることは出来ない。けれどもそうかと云ってそれを科学に対する哲学(自然哲学)であると云って了うことも無論許されない。それ故哲学と科学とを区別しようとする現代的な着眼は今の場合稍々当違いな結果を惹き起こすことに終るであろう。そうしてこの場合の例は恐らくギリシアの学問全体に就いて云い及ぼすことの出来るものであるであろう。凡そ哲学と科学との区別は近代的関心から生まれた近代的な学問形態にぞくす――前を見よ。尤もその萌芽は恐らく遠くルネサンス期に於けるイタリアの自然哲学の内に植えられているであろう。併しこの区別への関心は、その自覚は、非常に新しい。古典に於てこの区別は必ずしも伝統的ではなかったことを記憶しなければならない。
早見博士が帰つた後、主治医の煙は、ぼんやり応接室に残り、冬菜は、ひとり、夫の病室に戻つて行く。
「ほんまに、そやなア」
加来誰もいけないなんて言はないよ。君が、なんかかんか用事ができて、行つてしまふんぢやないか。わたしは、君だけに死に水をとつてもらへばいい。子供たちは、その時は、ここにいない方がいい。不必要なショックだ。
「いやあ、――あ、荷物、荷物……」
一同、もはや、顔をあげていられない。
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